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好きなものの備忘。

500日後に働く私

Wake Up, Girls!Advent Calendarに今年も参加させて頂きました。見積りが甘く、大分遅刻してしまいすみませんでした。他の方の記事は下記リンク先よりどうぞ。

 

 

2017年6月末日、数年間勤めた会社を退職した。最終出社日の朝、全体会議で上司に「じゃぁ、最後に挨拶して」と言われて前に出た私は「今までお世話になりました。この会社で学んだことを糧にしてこれから頑張っていきます。ありがとうございました」という無難な言葉を最後の挨拶に代えた。「無難だな」と笑う上司。飴と鞭の亜種版である陰湿と罵声を日々与えてくれた彼のおかげで私は嫌なことに対して向き合わず、感情を無にすることで、透過させるということに長けてしまった。そんな上司に対して「はい(笑)」と微笑みで応えられた。オフィスで上司に笑顔を見せたのはきっと最初で最後だったろうけども、それが定かかもあまり覚えていなかった。

 

 
ひとり暮らしのアパートは会社の借上げだった為、退社翌日にはもう追い出された。居心地はとても良かった。会社が辛い分、自分の家だけはいつも自分の居場所でいてくれた。上司はともかくとして、会社の福利厚生は流石の大企業様で、家賃負担は数千円に水道光熱費は全額会社負担、電化製品も無料貸出という至れり尽くせり具合。そんな心地よい居場所があってもこの会社を続けていくのは私には難しかった。辞めたい、そんな思いを胸に秘めながらもダラダラと数年続けてしまっていた。そんな気の緩みが、ある時私に痛い目を見せた。

 

ノルマをこなそうとやった私の営業が社内ルール違反だという指摘を受けた。さらにはそれを発端として行われた全社的な社内調査で私同様の違反者がたくさん出てきてしまったらしい。しかしペナルティを食らったのは私だけで、フロント営業からバック事務への転換を命じられるという、インパクトとしては経済制裁と同義の仕打ちであった。しかし私はこの処遇をむしろ嬉しく感じた。毎日数字に追われ朝から晩までギャーギャー言われる日々から開放され、のんびりと事務的作業や顧客応対をしていればお金が貰える日々に変わったからだ。「〇〇さんだけこんな目に合うの納得行かないですよ、皆やってるのに」と言ってくれる健気な後輩もいたが、私の平穏な日々を奪わないでくれとなだめたりもした。それにこんな日々が長く続きやしないということも知っていた。半年程過ぎた頃に支店長室に呼び出され、言われたのは「明日から営業に戻れ」。また地獄の日々が始まったが、それもまた長く続きやしないということを私は感じていた。もう無理だったのだ。鬱蒼とした思いを抱えた時間と、ぬるま湯に浸かった時間は余りにも長過ぎた。一ヶ月ももたずして退職の申し入れをした。しつこい詰め方をして私を苦しめてきた上司は、自分の評点が下がるからかは知らないが、引き止め方もまたしつこかった。よくある引き止め文句を並べたと思えば、「この会社にいればな、スーパーに行っても値札を気にすることはないんだぞ」という高給取りとは思えないパワーのない言葉を贈ってくれた。そんな不毛な面談を何度か繰り返し、無事会社を辞めるに至った。


セダン車にいっぱいの家財を詰め込んで、過積載を疑いながら2時間車を走らせた。たどり着いたのは実家。ここ一ヶ月程で帰省はなんと驚愕の5度目。毎週に渡って帰省していたわけだが、実のところその目的は単なる帰省ではなく、「会社を辞める」、この一言を親に伝えたいが為であった。しかし伝えられなかった。そんな1秒そこらの言葉を口に出し、耳に入れた親がどんな反応をするのかが怖くて、言えなかった。その結果、毎週帰省という謎イベントが発生することとなっていたのだ。決して親に怒られるのが嫌というわけではない。というか私の親はきっと怒らないだろう。怒ったところをほとんど見たことがない。子供の頃に従兄弟にもらったモデルガンを父親に向けて「おい、お前!」と言ったらノータイムでビンタされて(ノータイムで「ごめんね!!!」と言いながら抱擁してきた)以来、怒られたことはない。そもそも、自分で言うのも何だが、私が比較的良くできた手間のかからない息子だったから怒る機会もなかったのだろう。辞めることを親に言えなかったのはなんでだったのか、今考えればだが、がっかりさせたくなかったからだろうか。大学受験の時一番行きたかった私大に落ちてしまい、浪人しようか迷いながら第二志望の地元の国立に受かったことを両親に伝えたら、見たこと無いくらい喜んでいる姿を見せられた。それを見て、国立に進もうと思った。親が喜んでくれるのが一番良いから。裏を返せば、私の報せで、落ち込んだり、悲しんだりといった姿は見たくなかった。その想いが、私の喉にその一言をつっかえさせていたのだ。


結局謎の3週連続帰省の末にもその一言を言えることはできなかった。劉備玄徳でさえ諸葛亮孔明の元に3度赴き自分の意志を伝えたというのに、私は1回も言えていない。そうしていたら、辞めることも確定し、ついに退社日がもう来週まで迫っていた。流石にもう逃げてばかりではいられないと、残り期限が後押しとなって、その一言を発する時が来た。「会社を辞める」。言えた、しかしそんな安堵をする暇もなく「そっか、良かったね」と言ってくれた。「ずっと元気なさそうだったから心配してた。帰ってきてくれるの?」、そんな温かい言葉に救われた。今思えばそんな温かさに大分甘えてしまったわけだが。5度目の帰省、けどいつもとは違う、長い長い帰省となった。

 

そうして私の無職として生活は幕を開けた。ここに至るまでの長い前置きから比べると私の無職生活は余りにも味気が無く、書き連ねられることが無い。最初は無職らしく任天堂Switchとゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドを買って、朝8時から16時まで頭が痛くなるまでやった。私がこれまでにやったゲームで指折りに面白かったと言えるが、全クリ後はそこまでやりこまず、結局ケンタウロスみたいなのは一度も倒せずコントローラーを置いた。それではと昔やり込んでいたネット麻雀の天鳳でもやるかと思いログイン画面を開いたら、1万戦もやった愛着のあるIDが期限切れで消去されていて、やる気を失った。誰もが夢見る不労所得を得て生計を立てようと思ってFXを始めた(不労所得ではないが)。最初はビギナーズラックでそこそこ勝ててはいたので、意外といけるんじゃないか?と錯覚してしまったが、そんな淡い甘い期待は当時話題の中心にいた北朝鮮のミサイルによって撃ち落とされた。退職して何ヶ月かすると在職中にこつこつ積み上げていた持ち株がやっと手元に入ってきた。特に思い入れも無いしと思って寄成で売り注文(最も早い売り方)を入れて朝ごはんを食べていた。その注文状況をなぜか前の会社の人達が観て笑っていたらしいけど(「こいつどんだけウチの会社嫌いなんだよ」と)、今では株価も2/3ぐらいだし、無職時代にした選択の中でも数少ない正着を踏めたんじゃないかとは思っている。と思ったけど入社当初は株価もその1.5倍以上していたから、ただの損切りだった。

 

そうして明確な金策にも巡り会えず、貯金とか株の売却代金を切り崩しながらつつましく生きていた。朝は早く起きてご飯を食べて、録画していた深夜アニメを観て、YouTubeを開いてお笑い動画でたくさん笑って、お昼ご飯を食べて、またYouTubeで同じ動画観て少し笑って、夕方に昼寝して、お風呂入って夜ご飯を食べて、寝る前にまたまたYouTubeで同じ動画観てクスッとして深夜アニメを少しリアタイして、ストロング缶を2本飲んでから、寝た。確実に何かはしていたのに、何も残らない、何もしていなかったと同じような時間を過ごしていった。働こうと思えば働けたが働こうとは思わなかった。私は会社の退職日、家に帰ってまずしたのは着ていたスーツをゴミ箱に入れることだった。もう将来のこととかお金のこととか、生きていくこととか、どうでも良かったのだ。ただ休みたい、そう思って過ごしていたらいつの間にか随分遠くに来てしまっていたのだった。

 

Wake Up, Girls!、邂逅はそんな何でも無い日の中で。秋アニメのラインナップを眺めていたら目に入った「Wake Up, Girls!新章」の文字。1期にはそこそこ面白いな程度の感想は持っていたが、特にそこから熱を持って追うことはしていなかった。ただ、無職時代アニメは1クール20本くらい観ていたので、当然WUG新章も視聴候補に入れることにした。しかも聞けば1話の放映直前にキャストが生放送特番をやるのだという。当時の私は無職と言っても、規則正しい生活をするタイプの無職であった為、リアタイしようとは思わず当日も寝た。翌日時間を持て余した私は、そういえばと思って昨夜の生放送特番のタイムシフトを開いた。キャストが誰それという知識すらなかった私だがなかなかに楽しめた。よくあるような馴れ合いなどではなく、時に優しく時に厳しく緩急を交えた掛け合いは何度観ても笑えるものであった。互いの取り扱い方を理解し、それはきっと仲の良い時も悪い時も乗り越えたからこそ、今の気心の知れた関係があるのだろうと想像させられるものであった。その時、WUGに明確に興味を持った。

 

その日から何でも無かった私の生活に少しずつWUGが入り込んできた。入りはバラエティ目線で、ニコニコ生放送でWUGちゃんねるを観たり、YouTubeで見つけた田中美海さんがメンバーのモノマネを披露する詰め合わせ動画(公式動画ではないので貼らないが)を1日に10回以上観たりするなどした。未視聴だったWUGの劇場版も借りて観てみたら、これも思いの外良くて、特にBeyond the Bottomを聴いた時の衝撃ったら無かった。あの瞬間からおよそ3年ほど経つが、あれ以上の曲にはきっと今後出会わないだろうという当時の思いを、今でも変わらず持ち合わせているとiTunesの再生回数に記録された970という数字を見て思う。ライブに初めて足を運んだ。幕張で開催されたWUGフェス2017、正直言うと別のキャスト目当てでもあったのだが、予習をしていく内にWUG自体が楽しみにはなっていた。そしてライブは期待以上のものを味わうことができた。特に「言の葉 青葉」「雫の冠」、吉岡茉祐さんの繊細ながらも力強い落ちサビは、一般販売席にいた最後方の私の心に真に響いた。コロナ禍の昨今だから尚更思いもするが、生で聴くことの意義や価値、それらを教えてくれた、というより分からされたはあの時であったと思う。そんなWUGフェスを機に、私はこのブログを始め、不感な時期を乗り越え多感な時期に覚えた感情を文字にしてきた。こんな冗長な文章をここまで観てくれている人がいるのであればきっとそちらも少なからずでも目を通してもらっているのではないかと勝手な信頼をして、ここからの道程のおおよそを省かせてもらう。

 

WUGを追っていて悔やむ点を挙げるとすればバスツアーだろうか。配信で観ていたカラオケの盛り上がりや怒涛の曲数を歌い上げたと聞く5周年ライブ、行けば良かったと後悔した。見ず知らずの人と寝泊まりすることへの人見知りゆえの抵抗感に加え、仕事の話とかになったら無職であると言うのもなんだか憚られるという思いがあって行かなかった。しかし今思えばWUGの現場は、いつ働いてんだってオタクと、どこから金出てんだってオタクに溢れた、変で面白い場所だったから気にする必要もなかったように思うが。そしてそんな色々なオタク達がライブ中は一体となっているところもまた変で面白いわけだが。そんなWUGとWUG現場の良さを理解し始めた矢先にあの日を迎える。2018年6月15日、わぐらぶからのWUG解散の報せを目にした。その日も日課の昼寝を終えた16時半頃、トイレの中でスマホのメールを見ていて思わず声が出た。落ち着こうとアイスコーヒーを飲んでいたが、実感を得ていくのに伴い、涙がボロボロと溢れ出した。出先で見ていたらどうなっていたのだろう。この日ばかりは無職で良かったと思った。これからはもう後悔したくない、そう思ってファイナルツアーは全部行くぞと心に決めた。

 

そうして始まったファイナルツアー「HOME」。千葉の市原で幕が上がり、神奈川に埼玉。関東民の自分としてはそこまで不便を感じなくツアーの序盤を追えていたが、PartⅡからツアーは本領発揮とばかりに日本中を駆け回っていく。大阪に岩手、年が明ければ熊本に大阪、長野、徳島、愛知、宮城。そんな全国ツアーと言わんばかりのゴリゴリ日程は私に現実的な問題を突きつけた。言うまでもない、お金である。チケット代は何とかした。しかし交通費に宿代、打ち上げにグッズ代、出費を考えたらキリが無い。ツアーを回していくことを考えるとどうしても首が回らない事態になることは明白であった。そこで私は意を決して赴いたのがハローワークであった。残念ながら、働き口の確保ではない。目的は失業手当だ。働く構えを見せれば数十万円の手当を受け取れると聞いていた私は、私服で証明写真を撮り、お願いしますと言って職員に申請書を手渡した。職員は怪訝な顔付きで私に「給付期限は失業から1年内なので、残り日数から逆算すると、貰えるのは3日分ですね」と言った。3日分とは何日分なのだろう。めのまえがまっくらになった!私はハローワークにグッバイを告げた。

 

そうなると残された道はひとつしかない。ついに来てしまったのか、「働く」時が。何とも褒められない立ち上がり方であった。何かに胸を打たれて心を入れ替えた、周りの人に助けられて背中を押された、そんな綺麗な物語の主人公は私ではない。お金が欲しい、多くの人の働く理由はいつだってここにある。キラキラ退職エントリなんて一部の志高き人材に限った話で、多くの人は職場がクソで辞めて、お金が欲しくて就職するのだ。

 

そうして私は適当に転職サイトに登録して、適当に就職活動を始めた。スーツもカバンも捨てていたからイチから買い直し。失業期間は400日以上(ハロワ後もグダグダしていた)の私の就活はどんなもんになるのかと思っていたが、意外にも面接まで漕ぎ着くことは難しくなかった。これが売り手市場というやつかと思ったのだが、実のところは違うところにあったようだ。面接で私が聞くようにしていた「なぜ私を面接に呼んでくれたのか?(要旨)」に多くの面接官が「これだけの空白期間に何をしてたのか聞いてみたかったから(笑)」と答えた。それもそのはずで、経歴だけ見れば、ダブることなく大学に進学・卒業し、ストレートに大企業に入った経歴は一見綺麗であるし、実際そう言われたりもした。しかしその後の空白期間がなんだか異様に長い。当たり前だが誰もがそこが気になるのだ。その長さでふるいにかけられることもあれば、逆に光る点になることもあったのかもしれない。ある程度であれば空白期間という自分の弱みも、場合によっては武器になり得るのだと学んだ。こういうことは自分の思い込み先行で進んでしまうことで気付かなく、やってみて初めて分かることでもあるので、なかなか難しいわけだが。

 

実は私にはどうしても気になる一社があった。それは新卒就活時の第一志望の企業であったが、その当時は最終面接手前で落ちてしまった。それでも諦めきれなかった私は「いつか転職してここに入ろう!そうだ、車のナンバーをこの企業の証券コード(各上場企業が持つ4桁の数字)にすれば転職面接でネタにできて話が弾むぞ!」と意味不明な思いつきで車のナンバーをその4桁にしていたのだった。そしてやっと今回の就職活動でそれを活かせる時がきたと思った。が、私は面接にすら進めず落ちた。空白期間が長すぎるからであると。故に今もなお車のナンバーだけが虚しく第一志望であり続けている。やはりお硬い系の銀行やメガバン系グループ会社では、綺麗でない経歴は門前払いのようだ。

 

しかし裏を返せば、私が面接に進める企業は少し緩めな企業であると言えるので、今の自分には合っているのではと思い直した。とある仮想通貨業者の面接では、麻雀が好きでネット麻雀では1万戦打ったと話したら、面接してくれていた役員も麻雀が好きだと言う。思い立ったかのように手元の紙に何かを書き始め「じゃぁこの場合何切る?」と言われて見せられた紙には「22556」という数列だけが書かれた。これは何切ると言えるのかと戸惑いつつも「…5…ですかね…」と恐る恐る答えたら「あー!やっぱね~!論理的な子はそう答えるよね~」と言って笑顔を見せ、結果としても内定を貰えた。超平面3副露時何切るで内定が貰える日が来るとは夢にも思うまい。

 

また別のFX業者では、趣味を聞かれたので「アイドルです」と答えた。もはや隠すのも面倒であるし、志高い系を求めてるならお互いミスマッチングなので、仕事以外のことは包み隠さず答えることとしていた。そんな私に女性の面接官は「ではアイドルの魅力はなんですか?」と聞いてくるので「物語です(即答)。彼女達が成長していく過程、彼女達の目に映る景色の変遷、それを共に応援していくこと、共有できた瞬間が何事にも代え難い喜びでうんたらかんたら」と熱く語るなどしたら、面接は落ちた。魅力が伝わらなかったのか、解釈違いだったのか、それともそのFXサイトのUIを軽くdisったのがいけなかったのか、落ちた理由を知ることはない。

 

そんなこんなを経て私はとある企業から内定を貰って、2度目の就職活動を終えた。社員数が少ないながらも、財務健全で東証一部上場(そろそろ東証一部は無くなるが)というパッと見優良企業そうなところにエントリーしていたら、ポンポンと進んで、最後は役員と握手を交わしていた。「いつから働ける?」と聞かれたので「いつでも大丈夫です!」と答えたら「明日からって言っちゃうよ?」と返されたので「すみません、やっぱり一週間下さい」と言った。

 

ダラダラと生きながらえていた私もついに社会に戻る日が来たのだと実感すると、色んな感情が私を震えさせた。執行猶予のような一週間、シャバに出る前に思い残すことが無いように遊び尽くそうと思ったが、あまり手に付かずいつの間にか出社前日になっていた。その日はWUGも出演するライブイベントがあり、推しの奥野香耶さんのイベントは途切れることなく行っていた為当然それも行く予定だったのだが、就職前日の気の重さから会場に向かうことはできなかった。今でもチケットは半券が切られることなく残っている。そして私にはまだやるべきことが残っていた。親への就職報告だった。辞める時も言い出し辛かったが、就職する時もまた言い出し辛かった。結局初めて言えたのが前日の夜で、「明日から働く。5時半起きで東京に行く」と切り出したら、「いきなりだね」と驚いた表情は見せたが、次第に安堵した様子を見せ、私の報せは受け入れてもらえた。不出来な私でも1年以上もの間家にかくまってくれたことには感謝してもしきれない。

 

そうして翌朝。実に500日ぶり2回目の社会人として迎える朝。出社してから、全社員の前で簡単な挨拶をして、自席に着いた。隣の中堅社員に「趣味は何かあるの?」と聞かれ、「あまり褒められた趣味はないです」と答えたら、「趣味なんてなんだっていいんですよ、自己満足なんだから」と言われて、ここならなんだか頑張れそうな気がした。入社当初は有給を取ることができず、日曜に岩手・盛岡公演があった翌日はキャリーバック片手にそのまま出社したり、大阪や徳島公演でもキャリーバック片手に退社しそのまま夜行バスに乗り込んだりした。そんな入社早々から出張三昧かのような私を見ても「またライブ?(笑)」と穏やかに見守ってくれた周囲には感謝したい。

 

家でダラダラと過ごしていた私が、ある日を境に朝は早く起きて、片道2時間かけて通勤し、夜遅くに帰るという大きく様変わりした生活を過ごすことになった。そのギャップからくる疲れやストレスも当然あったが、何とか乗り切れた。「だって週末ライブがあるから」、そんな魔法のような言葉が、私の変化値激動の一週間を支え続けてくれたのだ。仮に今のようなコロナ禍であったとしたら、私は働き続けられていたのだろうか。そもそも就職ですらきっと苦労していたことだろう。決して私はWUGのおかげで働き始めた、とは言いたいわけではない。仮にWUGにハマっていなくても、きっといつかはお金に困り働いていたであろうから。ただ、WUGのおかげで働き続けられた、生き生きと生きられたと言うのは真である。趣味が在るってなんと素晴らしいことなのだろう。夢中になれることがあるってなんと恵まれているのだろう。好きになれることってなんていう才能なのだろう。立ち上がるきっかけをくれた。気付けばいつの間にか救われていた。Wake Up, Girls!には感謝が尽きない。

 

入社からある程度経ち、私の元にもやっと有給休暇というものが付与された。初めての有給を使った朝、いつもと同じ通勤電車でも違ったのは、スーツではなくウインドブレーカを着ているということ。通勤カバンではなくカラフルなシールが貼られたトートバックであるということ。向かう場所が職場最寄りではなくさいたま新都心駅であるということ。

 

これが私の第一章。以上。

 

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